酒井甚四郎商店 始まり

良くお客様からも「浦和で奈良漬?」とお問い合わせ頂きます。

今日から、酒井甚四郎商店の歴史についてアップしていきます。

初代甚四郎は、1842年(天保13年)に、現在の三重県亀山市の農家に生まれました。成長した初代甚四郎は、お茶の栽培を技術指導する「茶師」として三重県庁の技官となり、その腕を見込まれ、静岡県や埼玉県などから栽培指導の要請を受けて埼玉に赴任しました。この赴任は甚四郎がのちに埼玉に根を張る契機となり、いまの酒井甚四郎商店が生まれることへと繋がっていきます。
技官を退官した甚四郎は現在のさいたま市浦和区の旧中山道沿いに土地を購入して商売を始めました。その商売というのは、お茶の販売ではなく酒を中心とした小売りで、同時に自分の生まれ故郷である三重県の酢や醤油、酒などの物産も取り扱っていました。今でいうアンテナショップのような形態の店で、物珍しさが評判となって、大繁盛しました。ある時、仕入先である三重県内の酒問屋から「奈良漬を作って売ってみてはどうか」と酒粕を譲り受けたのを契機に、奈良漬作りを決意。研究に研究を重ね、ついには奈良漬の製法を完成させました。甚四郎が製造した奈良漬は白瓜(しろうり)を中心に漬け込み、その味が一躍評判となって1902年(明治35年)には、当時の宮内省に献納を致しました。この頃には、すでに奈良漬製造・販売の家業が確立、一代で今日の基礎を築き上げた甚四郎は、二代目幸吉に後を託し、1918年(大正7年)に76歳の長寿を全うしました

初代甚四郎は茶師であり、埼玉には栽培指導の為に来たんですね。その後、現在店がある浦和の場所に移り住みアンテナショップを始めた、その後、勧められて奈良漬作りを開始します。これが浦和に奈良漬ができた理由です。

浦和に店を構える「青山茶舗」さんも「茶師」であった初代甚四郎が絡んでいるとの歴史も残っています。

 

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